木津屋の歴史

木津屋 創業

 木津屋は、今から313年前の正徳元年(西暦1711年)、初代木津屋治郎兵衛により創業され、長い年月に渡り、大坂南堀江の葭屋町にて商いをして参りました。

 木津屋の始祖は、元々は商人の出ではなく、仏教のお寺から分家したことに端を発しています。平安時代から鎌倉時代にかけては、僧侶が漢方薬や医療を担っていたという経緯もあり、関連性があるのではとも考えられます。しかし、商家との養子縁組なども有り、現在に至るまでに多くのルーツを持っております。


元号 正徳

 開業の月日は、今は判らなくなっております。しかし、正徳の年号が始まったのが、4月25日(新暦6月11日)ですので、それより後ということになります。


堀江

 本家の戦前の地名は、大阪市西区南堀江一番町22番地で、江戸時代後期は、葭屋町/葦屋町(よしやまち)という名でございました。今の大阪市西区南堀江4丁目8-24にあたります。


屋号の由来

四天王寺建立

聖徳太子

 物語は、聖徳太子様による四天王寺建立の推古天皇元年に遡ります

木津の現在


 四天王寺の建立に伴い、全国から大量の木材が、御先祖である小野義持の住んでおりました難波の海浜の邸宅前に集められました。木材は義持が造らせた溝渠(鼬川)を使い、荒陵(あらはか)の地に運ばれ、四天王寺は建立されました。

 このことが「木の津」「木津」の地名の起こりで、当家の屋号はこの名に由来しております。


 木津屋の歴史は310数年でございますが、この「木津」の名には1400年もの歴史がございます。「木の津」「木津」は、後の木津村となりました。


鼬川のページ → 鼬川 


欽明天皇

欽明天皇


 この「木の津」は景勝地で、欽明天皇行宮の地でもございます。

 聖徳太子様は、かつて禁裏であった欽明天皇行宮のすばらしい地に寺を創建し、当家のご先祖である小野義持に守らせました。その寺は「日下山 願泉寺」でございます。

 あまり知られていませんが、願泉寺は「聖徳太子開基の寺院」の名刹でございます。


 写真 : 欽明天皇御陵 道標 


木津城

 戦国時代も終わりの頃、石山合戦において当家の御先祖様は、木津の地に「木津城」を築いて城主となり、戦国武将さながらで織田信長の勢力と戦いました。「木津城」は石垣を備え、織田信長勢の水軍を抑えるのに力を発揮しました。ここでも、当家と「木津」の名は切っても切り離せないものとなっております。

 「木津城」の城跡は、現在も西成区出城の地名として残されております。また、この辺りは「元木津」と云う地名で呼ばれていたこともございました。

木津城のページ → 木津城 


木津宗詮

 茶道の木津宗詮宗匠(武者小路千家 茶道教授)と当家は、「木津」の名前のルーツが同じでございます


木津川

 西区を南北に流れる木津川、および浪速区の町名の木津川も、その起源は「木津村」「木の津」にあり、その根本は上記の四天王寺建立に遡ります。

木津川のページ → 木津川 


木津村

木津 道標 当家、願泉寺のあるあたりは、「木津村」と呼ばれておりました。

 大阪の伝統野菜で有名な、「木津人参」や「木津冬瓜」は、この木津村あたりが発祥の地でございます。また、木津干瓢(かんぴょう)とい名のカンピョウも作られていました。木津村と呼ばれていたころは、畑が多く、農家が多かったと推測されます。


 写真 : 木津への道標



木津村のページ → 木津村 


蔵造り商家

 戦前の本家は、堀江の葭屋町(葦屋町)と呼ばれていた通りにございました。江戸時代の地名でございます。明治時代、大正時代、昭和時代の初期は、西区南堀江一番町、西区南堀江大通五丁目と変化して参りました。現在の地名では、大阪市西区南堀江4丁目8-24でございます。
 また、掛屋敷、別宅は西側の松本町まで続いておりました。

 江戸時代(安政)の表記 : 摂州大坂堀江黒金橋壱丁半南葭屋町
 堀江、新地開発前の町名 : 伏見清水町


蔵造り建築

木津屋 大阪大空襲までの本家は、蔵造り商家でございます。大阪では珍しい蔵造り建築が採用された建物でございました。蔵造り建築と申しますと、埼玉県川越市の「蔵造りの町並み」が有名ですが、大阪および関西地方のものは殆ど知られておりません。
 当時のごりょうさんなどの証言によりますと、建物の内部はいわゆる町家で、船場や京都の町家と同様の造りでございました。間口が狭くて奥行きがとても長い鰻の寝床の形状で、奥に庭や土蔵がございます。

 改築もされていますが、元々の構造体は江戸時代後期から明治時代の建築かと思われます。

 本家の敷地の大きさは調査中でございますが、推定200〜200数十坪でございます。土蔵はふたつございました。

 昭和11年に店前の道幅拡張が行われ、表の土蔵はひとつなくなりました。道幅の拡張前は、荷車が行き交うのがやっとな程の狭い道でございました。


蔵造りの観音開扉(写真:上)大阪大空襲までの本家の外観:重圧な観音開扉の窓、黒塗り漆喰の壁、石の腰巻など、典型的な蔵造り建築でございます。

(写真:左)土蔵造り 観音開扉の窓



蔵造り商家(写真:右) 当時を知る方の証言で、石積みの腰巻(格子の下部分)であったということでございますが、表にせり出した角度からも、重圧な腰巻の構造が判断出来ます。

腰巻の上側には、町家独特の格子もしつらえてございました。



町家

大阪市立日吉幼稚園 昔よくあった町家の構造で、入ってすぐが「見世(みせ)」で、通り庭が向かって右にございました。

 大阪大空襲で焼け落ちてしまいましたが、さすがに土蔵だけは助かりました。堀江や新町などの旧家には、今も戦災を逃れた土蔵が、僅かながら残っております。


 戦前は、南隣に浄土真宗本願寺派の浄徳寺さんがございました(現在:北堀江3丁目)。

 現在、旧本家の跡地には、大阪市立日吉幼稚園が建っております。(写真)

蔵造りの商家の油絵

大阪大空襲

 昭和20年3月13日〜14日 第1回大阪大空襲
 この日は、木津屋、そして大阪の運命の日でございます。大阪大空襲でございます。この日に大阪の町が焼き尽くされました。そして、多くの人の運命を一瞬にして変えてしまいました。
 焼け野原となった木津屋の土地は進駐軍に没収され、その後しばらくは、材木置き場として使用されました。
 堀江界隈および西区から焼け出された方は、比較的空襲の焼失地域が少なかった、阿倍野区や住吉区方面に移って行かれたケースが多かったようでございます。木津屋も住吉区帝塚山に移り、その後阿倍野区松虫通りの時代を経て、再度、本家を住吉区に移しました。

大阪大空襲


木津屋の系図

小野氏

 当家の系図は、遣隋使小野妹子に遡り、御先祖様を辿ると小野小町、小野道風などの小野氏の流れに繋がります。
 小野氏の出は和邇 ( わに )という古代の豪族でございます。和邇氏からは春日氏や柿本氏などが出ました。そして、当家もこれまでの長い歴史の中で、様々な血が入っていると考えられます。

 小野妹子 ( ononoimoko.org )


京都八坂神社

 祇園祭で有名な京都の八坂神社。木津屋は、八坂神社の創祀者および社家(初代〜二十代)の子孫です

 その後、同じく祇園信仰の津島神社社家十代ほどの子孫です

 八坂造/やさかみやつこ ( 京第都八坂神社の創祀 )   〜 紀氏


【 その他の流れ 】

 米田屋治郎兵衛 ( 四天王寺の宮大工 )

 脇田重兵衛 ( 問屋町商家 )   山田幸太郎 ( 宮様お泊りの豪商 )

 桓武平氏( 伊勢平氏・平家 )

 嵯峨源氏・文徳源氏・清和源氏( 摂津源氏、河内源氏 )・宇多源氏・醍醐源氏・村上源氏

 藤原氏 ( 南家・北家・式家・京家 )   橘氏   蘇我氏   大伴氏

 熱田神宮大宮司家   石清水八幡宮別当家   上賀茂神社社家

 大河内家 ( 徳川家康の高祖父 )   大橋家 ( 織田信長の姉が嫁入り )  など


 徳川家とのつながり → 徳川家


 NHK大河ドラマ 「 光る君へ 」で注目の紫式部 → 紫式部

 木津屋は、紫式部の子孫です。源氏物語(紫式部)の光源氏は、モデルが実在したと云われておりますが、モデル候補者の中の6人は、木津屋のご先祖です


祇園祭をはじめた平清盛源氏物語



お家の家紋

家紋 丸に井桁 当家の家紋は「丸に井桁」でございますが、一般に日下姓のお家には見られないものです。これは、歌舞伎や浄瑠璃で知られる、「奴の小万」こと木津屋お雪(三好正慶尼)の三好家との繋がりに縁るもので、その起源は、浅井三姉妹(茶々:淀殿、お初、お江)で知られる浅井家に縁るものと考えられています

 お家の代表紋は「丸に井桁」でございますが、女性は、「撫子紋(なでしこもん)」を使用しております。

 ちなみに、江戸時代の越後屋は「丸に井桁」の中に三井の「三」の文字が入った「丸に井桁三」と呼ばれる家紋でございます

井桁紋について → 家紋


浅井三姉妹
 浅井三姉妹を描いたNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」、放映されました


旦那衆

 大店の商家の当主は、旦那衆と呼ばれ、地域に貢献すべく色々な活動を行なっていました。社会事業や芸術家に 援助したり、様々な社会貢献をしておりました。木津屋においても、幾つかの記録が残っております。

 明治7年 第三大学区第二中学区西大組十九番小学(今の大阪市立日吉小学校)の設立に、八世 木津屋治郎兵衛が寄与いたしました。その後の記念事業などに、歴代の木津屋治郎兵衛が寄与いたしました。


古文書

 江戸時代の記録は元々少ない上に、度重なる災害に会い、古文書は少ししか伝わっておりません。しかし、歴代の当主が公共に寄付をしていたため、そういった古文書は残ってきております。
(享保17年「享保の大飢饉」(享保の仁風)、天保4年〜7年「天保の大飢饉」による、天保8年「大塩平八郎の乱」大坂焼失後 など)

 また、唐薬種(漢方薬)の商いをしていたため、大阪道修町の神農さんにある「くすりの道修町資料館」には、当家関連の古文書が大切に保存されています。

 記録は残っていても、不鮮明な文書や破損している文書もございます。また、昔の文字や筆文字で書かれているため、解読しづらい文書など、研究には時間と労力が必要でございます。

 木津屋の家屋敷や周辺の写真は、殆ど見つかっておりません。木津屋所蔵の品々は、その殆どが大阪大空襲で焼けてしまいました。しかし、土蔵の中の物は戦火を逃れ、その中の一部が現在まで伝わっております。しかし、土蔵の中の焼け残った品々も、貴重品は全て盗人にもって行かれてしまったという逸話もございます。戦争は町や物だけでなく、人の心までも破壊してしまったようでございます。


歴史文献

木津屋の名が出て来る、歴史文献を調査研究しております

折口信夫「三郷巷談」

 明治から昭和の時代にかけて活躍した、民俗学、国文学、国学の研究者である折口信夫氏の「三郷巷談」からの一節です。

「南波屋が南波、木津屋が木津谷になったのは普通だが、摂津・丹波の山間十石から出て来て、屋号としたじゅっこくを名字にしてから、俄かに幾代か前に、十石米を貧乏人に施した善根者があったので、十石で通ることになったのだ、と由緒を唱へ出した家もある。」 〜折口信夫「三郷巷談」より

「死者の書」などの数々の著作で有名な折口信夫氏は、大阪の木津村(現在の浪速区)の出身で、木津屋の始祖もこの木津村の出身でございます。実際、折口家のお墓と木津屋のお墓はお隣さんでございます。この本の内容は事実を忠実に記述したもので、身近に存した木津屋治郎兵衛こと当家木津屋の名を記述したようです。「南波屋」も実際に存在した商家の名と考えられます。

出典:「折口信夫全集 3」中央公論社、「『古代研究』第一部 民俗学篇第二」大岡山書店

折口信夫先生について → 折口信夫

奴の小万

 「木津屋於雪の伝、奴小万の事」

 島之内うなぎ谷に、木津屋五兵衛という薬種屋があり、その娘三好正慶尼こと木津屋お雪のお話です。当時の大坂ではとても有名な話で、歌舞伎の演目にもございます。

 木津屋五兵衛と当家木津屋治郎兵衛は同族で、本家分家などの関係でございます。鰻谷の木津屋、三好正慶尼、及び三好家については、以下のページが詳しくなっております。

三好正慶尼の家 → 鰻谷の木津屋

奴の小万 → 奴の小万


木津屋吉兵衛の学問所

大阪市立日吉小学校

 「日吉六十年誌」という書物に
 「 吉宗冶政時代たる享保十九年、大阪最初の學問所(学問所)懐徳堂におくるゝ事僅に十年にして、橘通二丁目(現在の南堀江下通一丁目)に木津屋吉兵衛が門戸を開いて子弟に教へた。 」
 という記述がございます。

 懐徳堂は江戸時代の町人主導の学問所として有名でございますが、この木津屋吉兵衛もまた、町人による学問所を開いていたようでございます。場所は、難波神社御旅所の近くです。木津屋吉兵衛の私塾は文献が乏しく、詳しいことは判っていません。同じく南堀江に、「藤井藍田 玉生堂」という私塾もございました。

 木津屋吉兵衛は、当家木津屋と同族であったと思われますが、文献がみつかっておらず、詳しいつながりなどは調査中です。

 初世 木津屋治郎兵衛が、木津屋を起こしてから20数年あとのことです。


大阪市立堀江小学校

 大阪市立堀江小学校発行の「百年のあゆみ」において、冒頭で紹介されています。

 「百年のあゆみ」では、堀江小学校の沿革の一番初めに記述されております。明治5年に学制が発布されて小学校ができましたが、その前身の役目を果たしました。


商家の地域貢献

 当家木津屋は、八世 木津屋治郎兵衛が明治7年の大阪市立日吉小学校の設立に携わり、その後の日吉小学校の事業にも経済的貢献(寄与)をするなど、地域の教育にも力を入れて参りました。

 大阪市立日吉小学校は、明治7年の創立当初、第三大学区第二中学区西大組第十九番小学校という名でございました。今では考えられないことでございますが、大阪市立日吉小学校の設立は、地域の有志の寄付によって土地が購入され、校舎が建てられました。


木村蒹葭堂日記

木村蒹葭堂邸跡 江戸時代、北堀江にございました木村蒹葭堂邸に、当家の御先祖も出入りしていたようでございます。木村蒹葭堂は、造り酒屋の商家坪井屋の当主で坪井屋吉右衛門と申しましたが、町人学者「木村蒹葭堂」として有名でございます。木村蒹葭堂が綴った「木村蒹葭堂日記」には、当家の御先祖が蒹葭堂を尋ねたことや、木村蒹葭堂が当家に訪れたことが記されています。一見単純に見える「木村蒹葭堂日記」でございますが、そこから掘り進めて行く研究はとても奥が深く、今後の重要な研究課題と言えます。

 木村蒹葭堂について → 木村蒹葭堂

 「完本 木村蒹葭堂日記」
 何度か出版されてきた「木村蒹葭堂日記」が一冊に纏められ、「完本 木村蒹葭堂日記」として世に出ました。この本が江戸時代の研究に与える影響は甚大なものと思われます。この本から、素晴らしい物がどんど生まれて来るのではないでしょうか。

 「平成の蒹葭堂」
 9万人もの来訪者があった蒹葭堂は、江戸時代の最高のサロンでございます。当家「木津屋」も、「平成の蒹葭堂」となるべく力を尽くしていきたいと考えています。

 木村蒹葭堂の志伝承「木の津の集い」 → 木の津の集い