読売新聞 わが町伝言板

 「読売新聞 心斎橋YC」さん発行の「わが町伝言板」に、大阪と木津屋の歴史についてコラムを連載いたしました。このページでは、そのコラムをご覧になって頂けます。


木津屋と堀江の歴史

新町

No.35  2020.4.16

新町はオリックス劇場(厚生年金会館)が有名で、落ち着いた町並みですが、江戸時代から明治時代のはじめはとても賑やかな花街でした。幕府が大坂中の女郎屋をこの地に移して遊郭としたからです。2014年まで新町演舞場の建物が残り、わずかに名残を留めていました。今は新しい魅力のクールな町です。


大阪平野

No.34  2020.3.19

大阪は平野が多く住みやすい町です。それは、昔ほとんどが海だったからです。中心から南に、難波、湊町、敷津、花園、岸里、潮路、玉出、粉浜、浜口、御崎、住之江、北島。北へは、中之島、堂島、曽根崎、野崎、山ア、中崎、中津、豊崎、三津屋と、海にかかわる地名が 連なり、名残を留めています。


住吉の御所

No.33  2020.2.20

御所といえば京都御所。今は東京の皇居です。あまり知られていませんが、その昔、住吉区に仮の御所(行宮)がございました。後村上天皇、長慶天皇は、室町時代に9年ほど住まわれました。後村上天皇の崩御、長慶天皇の即位の地でもあります。場所は墨江2丁目。跡地は 国の史跡に指定されています。


木の津

No.32  2020.1.16

当家 日下家の発祥の地は、木津村といい、今の大国町あたりです。その昔は「木の津」と呼ばれていました。四天王寺を建立するにあたり、諸国の木材が、この地に集められたことに由来しています。聖徳太子は木の津に寺を建て、当家のご先祖 小野義持にその寺を守らせ、 今も受け継がれています。


物部氏

No.31  2019.12.19

大阪に物部氏(もののべ)という豪族がありました。東大坂・八尾を中心とする河内に広く勢力をもっていました。聖徳太子・蘇我氏との戦いで破れ、領地が奪われ、四天王寺もその地に建てられたと考えられます。物部の民は広く散らばり、多くの末裔がいます。神事など、 今も強く影響力を保っています。


辰己屋

No.30  2019.11.21

堀江の中央図書館は、ネーミングライツで「辰己商会 中央図書館」となっています。奇しくも、江戸時代の堀江には辰己屋という商家がありました。ある出来事で有名な豪商で、松井今朝子さん、朝井まかてさん等の歴史小説の題材になっています。当家木津屋の一族とも深いつながりがありました。


日限萬里子

No.29  2019.10.17

アメリカ村の発祥と発展に大きくかかわった日限萬里子さん。三角公園の北西角に「ループ」というカフェを創り、アメ村のきっかけとなりました。その後、クラブを創ったりプロデュースしたりで一つの時代を築きました。静かだった堀江への進出(ミュゼ大阪)も斬新で、今の賑わいの礎となりました。


聖徳太子

No.28  2019.9.19

大阪にゆかりある人の中で、聖徳太子は別格です。四天王寺建立、仏教の研究と擁護、すばらしい政治と外交。もっとPRすると観光にも役立つことでしょう。聖徳太子が大阪の町を行き来した様子を想うのは夢がありますね。当家のご先祖も聖徳太子の下で御加護を賜り、今の木津屋がございます。


町は西へ

No.27  2019.8.15

かつて島之内は花街として賑わい、その後、戎橋商店街、心斎橋商店街界隈へと町は広がり、ついに御堂筋を超えてアメリカ村へ。近年は堀江にまで賑わいが広がり、その反面、島之内はかつての賑わいを失いました。そして今、ドーム球場ができた千代崎の水辺エリアへと、町は西へ西へと移っていきます。


堀江川

No.26  2019.7.18

堀江には、堀江川が流れていました。西横堀川( 阪神高速 )を、御津公園の西辺りから分かれ、堀江公園中央部、府民共済南側、松竹ビル、高台橋公園北部分、コンビニF北側、日吉郵便局北側、日吉会館北側、タワーマンション、そして木津川に合流。長さ1.5qで橋は九つ。昭和35年に埋められました。


堀江コレクション

No.25  2019.6.20

長らく堀江は、家具の街として栄えましたが、今はファッションの街となりました。先日、堀江コレクションというファッションショーが開幕しました。今は、木津屋の主催ですが、将来は、世界に発信できるようなムーブメントにしていきたいと、動き出しています。堀江から世界へ! ホリコレ


蔵造りの商家

No.24  2019.5.16

かつて、木津屋の屋敷は蔵造りでした。土蔵のような外観で、窓には土でできた分厚い観音開きの扉がしつらえてありました。大阪ではとても珍しい建物です。中の作りは一般的な町家で、二階があり、土蔵は二つありました。うなぎの寝床のように奥に広く、中庭があり、井戸もありました。


日吉幼稚園

No.23  2019.4.18

日吉幼稚園は、木津屋の屋敷があった所です。南横に浄徳寺があり、北側に郵便局がありました。前の道幅は狭く、屋敷は西側に伸びていました。向いには、藤本商店という船具屋さんがありました。幼稚園は初め、日吉小学校の敷地内西側にあり、平成30年、めでたく130周年を迎えました。


大阪大空襲 2

No.22  2019.3.21

3月13日夜、大阪市内は焼け野原となりました。空襲をまぬがれた阿倍野や住吉、平野方面に、逃げた人が多かったようです。木津屋も親戚の住まう帝塚山に身を置きました。元の地での再興が叶わず、それらの地域で暮らしを立て直した家も多かったようです。ほとんどの家は、大きく暮らしの変化を強いられました。


千代崎

No.21  2019.2.21

千代崎は堀江の西隣。ドーム球場が有名です。堀江から千代崎橋を渡って少し先の花園橋に、「八千代座」という劇場がありました。松下幸之助がお見合いをした所です。その先にはチンチン電車が走っていました。大阪で一番初めにできた路線で、築港桟橋まで続いていました。この辺り、昔はとても賑やかでした。


とくわ小路

No.20  2019.1.17

今、木津屋があるのが、とくわ小路(こみち)。漢字で「十九和」と書き、昔この地に、十九軒の家が仲良く建っていたことに拠ります。平成も終わりの今も尚、昭和の香りを残しています。蝶が舞い、小鳥がさえずる小路。堀江の名所として、世界中から人々が訪れるように、皆で楽しく盛り立てていきます。


神農さん

No.19  2018.12.20

江戸時代、日本の薬の商いは、道修町(中央区)が中心でした。道修町で改めた品は、最高のブランドで、義務付けられていた時期もありました。また、大坂の薬種の商家は、道修町にご鎮座する少彦名神社(神農さん)にお参りし、商いの繁盛を祈願してきました。今でも秋の神農祭は、とても賑わっています。


蒹葭堂の意志

No.18  2018.11.15

江戸時代の多才な文化人、木村蒹葭堂の意志を引継いだサロンが、木津屋で開かれています。芸術家や書道家、学者などの著名人が、蒹葭堂に集いましたが、木津屋にも様々な方が参られています。豊年会もその一つです。おきがるにお越し下さい。二百数十年の歴史!


歴史小説

No.17  2018.10.18

木津屋が登場する歴史小説が刊行されました。朝井まかて 著「悪玉伝」です。堀江が舞台で、史実に基づいた話です。「奴の小万と呼ばれた女」「辰巳屋疑獄」(松井今朝子 著)とう小説でも、木津屋が舞台になりました。これらの木津屋は木津屋治郎兵衛と同族です。大坂の歴史が学べますよ。


日下

No.16  2018.9.20

木津屋は屋号で、姓は日下(くさか)です。ご先祖が聖徳太子様より賜りました。45代ほど前です。日本は昔ヒノモトと云われており、日下は国号と同義であると考えられます。日下姓は、徳島県や宮城県白石市に多く見られ東大阪市に地名があります。「日下友の会」入会募集中です。


古民家再生

No.15  2018.8.16

今の木津屋は、築60年の古民家です。建築時より古材が使われ、希少な構造の建物です。木の魅力を引き出し、更におもしろいアイデアを取り入れた古民家再生に取り組んでいます。見学会も催しています。


日吉小学校

No.14  2018.7.19

大阪市立の日吉小学校ですが、校舎の建築は、地元の有志によってなされました。商家の旦那衆などがお金を出し合いましたが、八世木津屋治郎兵衛も、筆頭者に次ぐ私財の提供をおこないました。また、江戸時代寛保年間には木津屋吉兵衛が、私設の学問所を開いています。


木津城

No.13  2018.6.21

「木津城」というお城がございました。織田信長と本願寺勢力との石山合戦において築かれたお城で、今の西成区出城のあたりです。平城ですが、とても大きな敷地でございました。十年にも渡って続いた戦を、大いに支えたお城です。木津屋のご先祖である、願泉寺の定龍が、城主でございました。


木村蒹葭堂

No.12  2018.5.17

昔、堀江には歴史的なサロンがありました。坪井屋という造り酒屋です。当主は木村蒹葭堂(けんかどう)といい、多才な文化人で収集家でもありました。木津屋のご先祖も遊ばせてもらいました。芸術家や書道家、学者など、著名な人が多く出入りし、彼のその記録は、江戸時代の研究の貴重な資料です。


のれん

No.11  2018.4.19

暖簾(のれん)とは、お店の名で、商家が最も大切にしていました。のれん分けは、今の本店・支店に似たものですが、直接の経済的つながりはなかったようです。当家のお寺には、木津屋と彫られたお墓がいくつか残っております。暖簾分けされたお店と考えられていますが、資料が少なく調査・研究中です。


奴の小万

No.10  2018.3.15

歌舞伎の演目に「奴の小万」というお話がございます。主人公、お雪の生家が「木津屋」(鰻谷)です。江戸時代、大坂の町で名をとどろかせたお嬢さんです。後に仏門に入り、三好正慶尼と名乗りました。小説家の松井今朝子さんが、著書の「奴の小万と呼ばれた女」で、みごとにお雪を蘇らせています。


老舗

No.9  2018.2.15

どのようにして、お家が長く続くか? その答えはシンプルでございます。お家の存続を最も重んじているからです。「牛のよだれ」といわれるように、細くても良いから途切れないことを良しとし、大儲けや店を大きくすることを二の次に考えているからです。「暖簾を守る」ことに力を尽しているからです。


小野妹子

No.8  2018.1.18

木津屋は商家でございますが、その起こりは、本家のお寺から分家したことに拠ります。浪速区にある願泉寺がそれで、初代のご院住は小野妹子の八男である小野義持です。以来、当寺は小野妹子の末裔によって守られ、木津屋日下家も小野妹子の血を今に受け継いでいます。


襲名十周年

No.7  2017.12.21

12月17日、当主は木津屋治郎兵衛の名跡、襲名十周年を迎えました。かつて、大店(おおたな)と呼ばれた大きな商家では、襲名はよくおこなわれていた慣わしで、珍しいことではございませんでした。しかし、商いの近代化とお家制度の廃止 により廃れていき、今ではほとんど見られなくなってしまいました。


木津

No.6  2017.11.16

木津屋の「木津」は当家の歴史からきていると、No.1でお話しました。そばを流れる「木津川」や、西成区「木津川」の町名、「木津市場」など、大阪で、木津と名の付くものは、すべて当家に端を発しています。「元祖 木津」でございます。


薬種屋

No.5  2017.10.19

昔は、薬種商などとも呼ばれておりました。今の漢方薬屋に近いですが、和薬も扱っていました。NHK連続ドラマ小説「わろてんか」が放送されておりますが、あのような感じです。木津屋は、このドラマの制作協力をさせて頂いております。 (11月11日 千里で講演します)


大阪大空襲

No.4  2017.9.21

「日吉幼稚園」の場所に木津屋はありましたが、大阪大空襲で、堀江の町は焦土と化しました。当家も焼け、当主やお家さん等は、帝塚山の親戚の家に身を寄せるなどしました。しかしその後、元の場所では、お家を再興できませんでした。


堀江

No.3  2017.8.17

今はにぎやかな堀江も、約300年前までは、葦が茂るような湿地帯でした。幕府の命で、堀が掘られ、その土で周りの盛土を行いました。その結果、改良された土地と、運河としての堀江川ができました。


名跡襲名

No.2  2017.7.20

代々、木津屋治郎兵衞の名跡を襲名しています。昔の商家ではよくありました。また、「字」より「音」を重視し、「次郎兵衞」と表した代もございました。婿養子が襲名することもございます。


屋号

No.1  2017.6.15

四天王寺を建てるとき、ご先祖様の屋敷の前に、木材を集めました。ここから、「木の津」「木津」の地名が生まれました。長年その地は「木津村」と呼ばれていました。今の大国町あたりです。


大阪の歴史

木津屋の歴史とともに、木津屋のある「堀江」という町、そして、木津屋に関わりのある大阪および近畿の歴史を綴っています。

時代は、聖徳太子さまの飛鳥時代あたりから現在まで、長きに渡っています。


コラム執筆

【最終回の挨拶文】

長らくおつきあい頂いたこのコラムも、これが最終回です。ありがとうございました。コラム掲載にあたり、心斎橋YCさんには、とてもお世話になりました。続けてこられたのも、心斎橋YCさんのおかげです。担当のトリイさんにおかれましては、締め切りの遅れがちなぼくを、やさしいお電話でひっぱって頂き、まことに感謝です。この最終回は、心斎橋YCさんのある魅力的な町「新町」で、締めくくらせて頂きました。

大阪、とくに堀江界隈の歴史を研究しています。講演、町歩きのガイド、コラム執筆などのご用命がございましたら、おきがるにお声かけ下さい。

木津屋治郎兵衛   



「読売新聞 心斎橋YC」さん発行の「わが町伝言板」は、2020年4月まで発行されていました。