戦前までの木津屋の主な商いは、薬の調合と卸しでございます。
時代的に、漢方薬(唐薬)ということになります。
古文書には「薬種所」「薬種商」という表記が見られますが、薬種のみの商いだけでなく、調合し、木津屋のオリジナルブランド薬品も製造しておりました。
商家によっては扱う品が時代と共に変わる場合がございますが、木津屋は創業当時から漢方薬を扱っていたと伝わっています。
大坂道修町の薬種中買仲間より薬種を仕入れ、調合(製薬)をして販売店・製薬会社などに卸しておりました。
また、薬種のままでも卸していたようでございます。
木津屋には今なお、170年くらい前の薬種も保存されております。
製品名(判明している薬のみ)
「人参竒應丹」(奇応丹)、「万王散」、「博應丸」、「肥児丸」、「奇験方」、「家傅五寶丹」(五宝丹)他。
大正時代から終戦までは、「人参竒應丹」が主力の商い品で、日本全国に販売しておりました。
木津屋が薬を卸していたお店(現在も存続で、判明しているお店のみ)
木津屋をはじめ、江戸時代から戦前の薬種商は、道修町と深い関わりを持っておりました。
道修町には、薬種中買仲間という株仲間が存在しておりました。日本の薬種は、この道修町を中心に動いていました。
明治時代、金看板と呼ばれる、文字通り金箔を使った看板が流行しました。
この金看板は表看板とも呼ばれますが、当時の金看板・表看板はとても凝った作りで、当時は各店が豪華さを競い合ったようでございます。現在でも骨董品収集家の垂涎の品になっております。
木津屋のような薬種商の店は、卸し先の販売店に、商品名や屋号の入った看板を掲げて頂いておりました。
木津屋の看板をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非教えて下さい。
(大坂堀江の木津屋治郎兵衛・木津屋次郎兵衛でございます。)
昭和初期の表看板
本家の近隣に貸家を所有し、借家業もしておりました。ただし、副業なのか、商いの重要な位置を占めていたのかは定かではございません。しかし、大阪大空襲後の木津屋においては、借家業(掛屋敷)のみが、途切れること無く歴代から承継された唯一の商いで、大変貴重なものでございました。
江戸時代には、このような貸家を掛屋敷と呼び、大店(おおだな)の重要な経営の一つになっていたようでございます。
【家賃の相場】 木津屋の掛屋敷の場合、第二次世界大戦終戦前の昭和20年頃で、22円から120円くらいでございました。
最高額の120円は医院の賃料でございます。
薬種商では、薬の神様であられますところの、少彦名命(すくなびこなのみこと)と神農様を、良く祀っております。
写真:少彦名神社の張子の虎
徳川御三家のひとつである紀州徳川家。 (紀伊徳川家とも)
木津屋の本家である願泉寺は、紀州徳川家が、大阪へのぼる時の宿としておりました。また、願泉寺から出陣したこともございました。
そういった深い繋がりから、紀州徳川家へ薬を献上していた可能性も十分に考えられます。
また、願泉寺が徳川家と深いつながりがある証しとして、寺の紋章は、徳川家と同じ「葵の紋」でございます。
(執筆中)