三好正慶尼

奴の小万

 島之内鰻谷(うなぎだに)に、木津屋五郎兵衛(木津屋五兵衛)という薬種屋があり、その娘木津屋お雪のお話です。お雪は奴の小万と呼ばれ、当時の大坂ではとても有名でございまして、歌舞伎の演目にもなっております。木津屋お雪は三好姓で、晩年仏門に入り(月江寺)、三好正慶尼となりました。

 ※ 奴の小万(三好正慶尼)については、「浪華百事談」という文献に「木津屋於雪の伝、奴小万の事」と云う記録がございます。
 ※ 鰻谷は、茂左衛門町と呼ばれた時代もございました。


三好氏

 木津屋お雪こと三好正慶尼は、戦国時代に畿内で政権を握った武将、三好長慶(みよしながよし/みよしちょうけい)の末裔と伝わっております。

 三好正慶尼は、月江寺に大法会を設けて豊臣秀次の霊を弔いましたが、その豊臣秀次もまた、元は三好姓でございました。

 三好氏は、丸に井桁紋を使用しておりました。三好氏の家紋としては、他にも「三階菱」「三階菱と五つ釘抜紋」「丸に三階菱」等もあり、お家の流れにより複数の家紋が存在いたします。


木津屋五郎兵衛

島之内鰻谷の木津屋

銅吹所泉屋 堀江の木津屋治郎兵衛と、鰻谷の木津屋五郎兵衛は木津村出身の同族で、本家分家の関係であったと考えられますが、大阪大空襲のため古文書の多くが消滅し、分家の経緯や系図等は調査中でございます。
 商家「木津屋」としては鰻谷の木津屋の方が古く、また、商いの規模から本家であったのではと考えられております。

 【写真】鰻谷の銅吹所泉屋跡・元住友家本邸のビリヤード場。銅吹所泉屋の東側(写真右側)に木津屋がございました。


三好家の家紋

家紋 丸に井桁

丸に井桁

 当家木津屋の本姓、日下氏において、「丸に井桁紋」が使用されている例が見られません。これは、他の家紋を使用していた日下家と、「丸に井桁紋」を使用していた三好家の間に縁が有り、「丸に井桁紋」を使用する日下家が誕生したものでございます。恐らくは、婿養子等の外戚の関係であったと考えられます。


菊水紋

 三好家の女紋に、「菊水」が伝わっています。菊水の家紋は、楠木正成が後醍醐天皇より賜った紋でございます。

 昔の関西の商家は、養女に入り婿を迎える等、複雑なお家間のやり取りがあり、家紋の伝承も単純ではなかったようでございます。また、一つのお家に家紋が複数個あることも良くございました。このことは、戦国時代の武家にも当てはまることでございます。


三好家の「丸に井桁」

 三好家の家紋「丸に井桁」の起源は、戦国時代の武将である浅井亮政・浅井長政の一族、浅井直政が、外戚の三好姓に改めたことに因ります。浅井氏の家紋と言えば、「三つ盛亀甲に花菱」が有名でございますが、浅井の「井」の文字にちなんだ井桁紋も使用しておりました。どちらかと言うと、浅井家にとって「丸に井桁」が本来の家紋ではとも推測されます。


浅井氏が三好姓に

 浅井直政(田屋)は、 浅井三姉妹の三女、お江(おごう)が、二代将軍徳川秀忠の正室となったことで、浅井姓を名乗り続けることを憚り、外戚の三好姓に改めました。

 石山合戦において、浅井氏と三好氏は共に本願寺勢力と手を組み、織田信長と戦いました。この石山合戦が、両家の結び付きを強めた事柄の一つであると言えます。

 浅井三姉妹こと、浅井茶々(淀殿)、初、江の3人は、戦国大名浅井長政と正室お市の方の娘でございます。また、お市の方は、織田信長の妹でございます。


医光寺

 浅井直政末裔の菩提寺である千葉県市原市の医光寺には、浅井家と三好家の合同位牌が安置されており、「丸に井桁」の家紋が入っています。また、三好政盛の位牌も安置されております。

 真言宗豊山派 医光寺 千葉県市原市西国吉185


浅井三姉妹

 浅井三姉妹を描いたNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」が、放映されました。
 NHK総合テレビ(日曜日 夜8時)他 2011年1月9日から11月27日

NHK大河ドラマ特別展「江〜姫たちの戦国〜」(滋賀展)
平成23年7月23日(土)〜8月31日(水) 長浜市長浜城歴史博物館 (滋賀県長浜市)
〜浅井茶々が使用したと伝わる帯も展示されました。茶々の帯には「丸に井桁」の家紋が入っております。

浅井氏について 浅井氏


三好正慶尼

三好正慶尼の碑

 堀江の木津屋ゆかりの地である、木津村の唯専寺に、三好正慶尼の碑があるとの古い文献がございます。しかし、現在の唯専寺境内には存在しておりません。また、三好正慶尼の墓があるという文献や、亡くなられた時の記録が唯専寺にあるという文献もございますが、大阪大空襲で焼失したのか、伝わっていない様でございます。
 三好正慶尼と、木津村及び唯専寺の繋がりについては、調査中でございます。

 (注)木津村とは、現在の大阪市浪速区の南西部辺りでございます。

唯専寺

 唯専寺は、聖徳太子と蘇我氏が物部氏を討った際、物部守屋を射落とした迹見赤檮(とみのいちい)が始祖でございます。唯専寺は、当家御先祖のお隣さんでございますが、ここでも、聖徳太子様を通して当家との関りがあるのが、興味深いところでございます。

奴の小万の記念碑を建てる会

三好正慶尼と難波村

 三好正慶尼は晩年、木津村の北隣、難波村で過したようです。
 難波村の端竜寺(鉄眼寺)にゆかりがございます。

月江寺

 三好正慶尼は、薙髪して天王寺村の月江寺に寄宿していたとの古い文献がございます。豊臣秀次の霊を弔うための大法会を設けたのも、月江寺でございます。


奴の小万

 木津屋お雪、後の三好正慶尼は、奴の小万(やっこのこまん)と呼ばれておりました。奴の小万については、講談社から出版されている松井今朝子先生の「奴の小万と呼ばれた女」にも取上げられています。この本は小説ではございますが、登場人物や時代背景等が、史実を元に描かれておりますので、歴史書としての価値もございます。

 松井今朝子(まついけさこ):京都市出身の小説家。「吉原手引草」で直木賞を受賞。他に木津屋を取上げた「辰巳屋疑獄」など、多数の作品を世に出されています。


木村蒹葭堂

 江戸時代の文化サロンとして有名な木村蒹葭堂邸に、三好正慶尼がたびたび訪れ、時には泊まったりもしております。また、当家も木村蒹葭堂邸と近所であったこともあり、とても親交が深かったことが、木村蒹葭堂日記により判っております。木村蒹葭堂邸を介しても三好正慶尼との交流があったかもしれません。今後の研究課題でございます。


三好正慶尼の子孫

 木津屋治郎兵衛の知人に、三好正慶尼の子孫と伝わるお家の方がいます。三好正慶尼は結婚を拒んでいたと伝わっています。その彼女に子供がいたのか?ということになります。そのお家は、長らく大阪の日根野に住まいをしていたとのことです。三好正慶尼の子孫なのか、はたまた、三好家の子孫なのかもしれません。


三好氏の子孫

 当家日下家は、三好氏との繋がりはございますが、血筋が必ずしも続いているかは確かではございません。昔は、お家存続のために養女を貰い、その養女に婿養子を迎えるということもございました。しかし、養女や婿養子を貰うお家は、血の繋がりがある場合が多く、現在まで、三好氏の血筋を継承している可能性は高いと思われます。

石山合戦

 当家と三好氏との御縁でございますが、織田信長と本願寺の戦いである石山合戦において、当家の御先祖は木津城城主となり本願寺勢力として戦いました。また、三好氏の三好三人衆と、三好に改姓した浅井氏の勢力も本願寺側につき、織田信長勢力と戦いました。石山合戦は11年間も続き、この流れの中で、何らかの繋がりが出来たのではとも考えられます。


南宮神社

廣田神社 摂社

南宮神社 狛犬南宮神社

 神殿前の狛犬の台座に「世話人 梶屋源七 辰巳屋茂兵衛 木津屋六兵衛」の文字が刻まれております。辰巳屋と木津屋の取り合わ せ、そして、木津屋六兵衛の名前等から、当家同族である鰻谷の木津屋と辰巳屋ではないかと推測されます 。

 南宮神社は、廣田神社の摂社でございますが、えべっさんの総本社、西宮神社の境内に御鎮座されています。


辰巳屋騒動

 辰己屋茂兵衛は、後の木津屋吉兵衛でございます。

(調査研究中)